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「時間つぶしにゲームをする人」から「やや暇つぶしでゲームやる人」の間の辺りの人の意見

はてブホッテントリが面白い記事だったので、触発されて、個人的に意見します。

 


私の立ち位置カジュアルゲーマー

 私は手持ち無沙汰を解消するためにゲームをする。電車の中、ちょっとした待ち時間だ。本を開くのが面倒なときにする。しかし、それをこなしている最中に、燃え上がって、時に熱中してゲームをする。あくまで、娯楽としてのメインになることは、数少ない時間と回数のみだ。友達と一緒にソーシャルゲームをしていたけれど、ほんの一時的なものだった。理由は、大きな金額を課金をせざるをえないから。そして、課金をしたとしても、納得を得られる結果が少ないからだった。それゆえ、毎回毎回そういう額を課金しないならば、普段しているソシャゲからは大満足を得られることは少ない。私の立ち位置はこんな立場である。

 

かつての立ち位置ヘヴィゲーマー

以前の私は、違った。それは、据置きゲームをやっていた頃の私だ。新作ゲーム機がでたら、つい買ってテクノロジーの進化を感じて満足し、その中でもRPGだと、ストーリーとレベル上げの作業を楽しみつつ、クリアする。また、アクションなら自分の技術の成長感じて満足していた。これは上述のブログからいえば、プロセスを楽しんでいるのだと思う。が、手持ち無沙汰を解消するためのソシャゲは、プロセスを楽しんでいないのだろうか。

 

その比較

過去と現在を比較すると、友達と一緒にソシャゲやるときは、熱中してプロセスを楽しんでいることが多い。だが、その時間は長く続かない。ソシャゲは周回ゲームになっているのが多いので、すぐに飽きてしまう。さらに、単純な操作でできるゲームが多いので、「ゲームとしての深み」を表現しているタイトルは少ない。例えば、パズドラは、スマホのタイトルではストーリーがなく、白猫は、シナリオはよくできているのがあるものの、肝心のアクションに関しては、その回のガチャのメインキャラをひけば、なんとかなるという仕様が多い。技術もある程度は関係あるが、ある程度にすぎないように感じる。ただし、無料で遊べるので文句はいわないし、過剰な期待もしていない。

加えて、ソシャゲをやっている人と出会ったら話のネタにする。私にとって今一緒にすごすゲームは、暇つぶしであり、話のネタだ。単なる一消費者で、「ユーザー」といえるまでのところにすら行っていない。

 

ゲームの楽しみ方の変化

つまり、ゲームの楽しみ方が違うのである。ゲームそれ自体に面白さを感じることを目的とするのではなく、ゲームを通じた交流で楽しむのである。過去においては、ゲームそれ自体に楽しみがあったが、ドラクエやFFなどのビッグタイトルが面白くないと感じるようになったせいで、ゲーム自体に大した期待を寄せなくなった、

他にも、(ヘヴィ)ゲーマーの精神的属性が合わないと感じるようになった。据置き機に夢中になっている人は、やりこみ系の方が多くて、やりこんだことを誇りに思っている方が多い。私もドラクエをやったらレベル99まで上げてしまう人であるが、それを誇りに思うことはない。夢中になってやった結果や単なる自己満足という評価である。他人と比較して、「エライ」という感情はほとんどない。しっかり味わった(?)という自己評価が増大するだけだ。いわゆるガチ勢やカンスト勢と話しても大して面白くはないことが多い。ゲーム製作者の背景や裏話、バグの理由などちょっとした小噺、ストーリーに対する受け止め方などならば面白く感じるけれども、そんなやりこんだことを話されても、全く面白くない。ゲームが好きという共通点になる程度だろう。しかし、そんな人と共通点を持ってもほとんど利益がない場合が多い。

 

考察

なぜ、そうなったのか?ゲームという文化が、盛り上がっていないからだと思う。90年代では、ドラクエやFFの新作が出ると、テレビのニュースで話題になったものだ。そして夢中になって面白いとか面白くないとか話し合ったものだった。けれども今はそこまで話題にならない。毎回毎回新しい発見は得られるような、あたらしくやりたくなるようなゲームはない。それは他に十分楽しめる娯楽があるからだし、みんなが共通して楽しめる夢中になれるビッグタイトルはない。ゲーマー向けのタイトルとソシャゲのようなカジュアルなタイトルで二極化している。

 

それ故、プロセスを楽しむユーザーは、ゲームを通じた友人との関わりという付随的なプロセスを楽しむか、据置き機のような大作でプロセスを楽しむか(※これにゲーマー同士の関わりもあるが)になっているのだろう。

 

趣味の時間は暇つぶしなのか?

最後に一つだけ補足をしたい。そもそも「趣味する時間は、『暇』な時間なのだろうか」という疑問は残る。これは、読書の時間が暇な時間に読書をするかという問題にも直結するかもしれない。仕事に関係する読書は、暇ではないようにみなされるかもしれないし、娯楽小説の読書は、暇つぶしであるようにみなされるかもしれないというのとは違って、ゲームが人生の中でどういう役割を演じているのかによるだろう。

映画を見るのは暇つぶし?テニスやマラソンをするのは暇つぶし?将棋は? これらは、社会におけるそのほかの趣味とゲームという趣味の重要性で判断されている可能性もある。が、趣味に対する考え方自体によるものの可能性も残る。趣味とは余暇にするものであるという認識の人からすれば、暇だから趣味をすると思われてもおかしくないからだ。

そう考えると、上記記事の執筆者は、ゲームだから軽く見られているという可能性を重く受け止めすぎている。今度からは趣味の時間で忙しいからという断りを入れてみたらいかがだろうか。そうすれば、ゲームが軽んじられているのか趣味の時間を軽んじられているか判別が付く。その結果、ゲームが軽んじられているのかを考えても遅くはない。ワークライフバランスにおける趣味の重要性と趣味としてのゲームの地位が混同して議論されているように見える。