欲しいと思ってたらいの中で水をかけば、脇から逃げていく

「欲しいと思ってたらいの中で水をかけば、脇から逃げていく」

これは、もう亡くなったある会社の社長が言っていた言葉だ。人格者だと思っていたが、実際は心の狭い人で幻滅したが、彼が事業でうまくいっているときに言っていたこの言葉は、きっと有名人の引用だろうが、今でも印象に残っている。

 

この言葉には続きがあって、「逆に相手に向かって水をかけば、自分のところに水は戻ってくる」が本当にいいたいことだだろう。だからビジネスの相手には与えることから始めなさいという教訓だ。なんという美辞麗句だと感じるが、これは、お金の流れが読めるようなゼロサムゲームでの話なら通用する。

 

けれども、現にあるような不況の中では、誰かが溜め込んだり、一瞬で株価がふっとんだりと、カンタンには行かない。だからこそ、インフレになってみんなが少なくとも金銭的には得をするということもある。

 

どこに着目して見るかで、現状は変わる。物事を自由に見れる人になりたいと願って生活している。

 

仕事で周りにあたる50代男性

わが社と共に仕事をされている三河さん(仮名)、50代男性です。飲食店の支配人や店舗の立上げを何度か経験されており、その経験を生かして一緒に仕事を始められました。

 

ところが、現在、ほとんどうまくいっていません。徐々に、ネガティヴなコメントをつぶやくようになりました。彼の信念は、「自分は時間をかけて知識を入れたらできる」です。が、初動で躓き、本業が忙しくもあり、にっちもさっちも行かない状態です。

 

私の見立てでは、基本的な知識をしっかりインプットしなかったこと、プレゼンの順番を間違えたことでうまくいかなかったのだと推測しています。なぜならば、突然、基本的な質問をされたり、自分は正々堂々としたいといって相手の都合を考えず、どんどんビジネスのお話をされているようです。

 

どんなにいいお話でも、順序を間違えたら受け入れられません。相手に聞く準備をしていただかなくてはなりません。そのため、講演の際には、リラクゼーションとなるようなお話やストレッチを入れたりする方々もいますね。講演じゃなくて、気になる女性をデートに誘う際も、「好きだからデートして」じゃなくて「映画の只券あるから見に行こう」の方がお相手も誘いに乗りやすいはずです。

 

3ヶ月ほど一緒に活動してきましたが、失敗しないと間違えに気が付かない方なのです。その失敗も、逐一細かく説明して、やっとご認識されるという状態です。さりげなく指摘するいくつかの項目をご理解していただけなくて残念なところがありました。

 

ある時「毎週会議を開いてくれ、いろんな方の意見を聞きたいから」といわれました。その方のためじゃなくても、その必要性は感じていたので、企画も考えたのですが、毎週集まれるというわけには行きません。東京でも、東から西までありますし、特に決算の時期は、皆さんメインのお仕事が忙しいのです。

ただし、仮に集まったとしても、一回の話のたびに、自分の過去の自慢話、仕事の話じゃなくて現状の言い訳をずっとされてしまうと人を紹介するのも難しいです。またうまくいっている方を下手に紹介してしまうと、さらにご自身の状況を客観視して落ち込んでしまうことが想像できます。

 

先日、彼の念願叶って、私たちと一緒に仕事をしている女性経営者と一緒にお食事をすることになりました。変なこといわないかなぁと思って気がかりでしたが、話の最中に興奮して怒り出しました。その場にいない、彼の長年のお友達に怒り出したのですが、彼以外の人をしらけさせてしまいました。以前に私と二人のときも同じ内容で興奮して怒っており、怒りがさめないようです。

 

私は該当チームの運営者として、どうしようか迷います。三河さんは、黙っていれば素敵な方なんです。存在感があるので、黙って座っていれば、もうちょっと尊敬の念を集めたりすることもできるからです。

 

また、ご自身のビジネスがうまくいかないことに対するやるせなさや不満もそれはわからないことはないです。今までそこそこの経営実績を残していて、失敗もあったけれども、今回は必ず軌道にのせると思ってやっているのに、それはつらいでしょう。

 

しかし、だからといって周りの方にあたるというのは、コミュニティを守るためにしなくてはいけないことを作ってしまいます。一方で、三河さんの名誉とビジネスを守るためにすること、綱引きの間で調和を図ってよい解決策を模索していきます。見限ったりするのはカンタンですから。

 

 

経営コンサルタントの方と飲み会

浅葱色の空を見上げると春を感じます。強い風が吹いていたとしても桜の花びらが舞うから、少しだけ穏やかな気持ちになります。こんばんは、きょうちです。

 

昨日は18時から経営コンサルタントの木嶋さん(仮名)とお食事をしてきました。外国語とコンプライアンスが専門で、外資系企業を経て独立された方です。

 

セールスをされていた経験もあるので、「どの言葉が心に響くか」を論理的に説明していただきました。

 

親と一緒に仕事していて思うこと:コミュニケーションスタイルか性格か

「親と一緒に仕事できていいですね」といわれます。確かに、地方から出てきて、中核都市に出てきて一人暮らしをして、親と一緒に過ごす時間がなかった方から見たらそうかもしれないです。けれども、親が論理的に動けるのならばいいですが、そうでない場合は大変ですよといいたいですね。

 

親のコミュニケーションスタイル

年齢のせいか、知的水準なのか、よくわかりませんが、ほとんどの場面で感情的にしか話すことができません。カスタマーの前で、何を言いたいのか、何を意図しているのか、分かればいいんですけれども、とにかく反応、感情的吐露の繰り返しで、仕事を円滑に進めるどころか邪魔をされることがあるんですね。

例えば、植物の話でバラ科の「林檎」の例を出したとすると、アップルパイの話をして平気で遮ってきますね。

 

感想をいわなきゃ気がすまない、人の話を聞けない、意図を汲めない

カスタマーに向けて話しているのに、逐一、私の発言に感想や意見を交えるから、1時間で終わる話が2時間かかることがあります。

例えば、海外のウェブサイトから仕入れてきた情報を披露するものなら、「私はそれは知らなかった、初めて聞いた、そんなのあったんだ」と感想を述べます。その情報を伝えるのは、カスタマーに、「○○な点が強みです」という為であって、個人的な感想を聞くために言っているのではありません。そうした横槍で話の腰を折られてしまうんですね。

最初は仕事の後で端的に止めてほしいといいました。しかし、その後も理由を説明しつつ、何度も注意あるいは懇願しても、少なくなりますが止めません。不満そうな顔をして黙っています。よくよく観察してみると、自分は正しいと思っているのか、何を言われているのか分かっていないようで、また不満そうな顔をしています。言っても伝わらず、邪魔されて、これが続くと思うと頭が痛くなります。

どうやら本人は、テレビ通販の観客のつもりで、コメントや相槌を入れているらしいのですが、すべての場面で必要なわけではないですし、また、演出で効果的な場面で相槌を入れるタイミングで編集できればいいのですけれども、リアルタイムではそんなことはできないので止めてほしいといいました。

そういえば、政治家の演説では、同じような感じで違和感のあるガヤを入れる役の方がいました。印象的だったのは、都知事に立候補した元総理の演説でのことです。効果あるんですかね。仮にあったとしても、演説とプレゼンは違うと思いますけどね。

 

この問題の本質その1:コミュニケーションスタイル(というより「捌け口」)

さて、本人にとって、言葉は人間関係を作るモノ、繋ぐモノとして理解できていないんですね。言葉は、自分の感情を言うものとしての理解しかしていない。言った内容で判断するのではなくて、言うという物理的な行為が重要なんです。一人カラオケや独り言と一緒です。ブログも近いものがありますが、誰に向けて書いているか?相手を想定しているか等、異にする要素はあります。

つまるところ、極端に言えば、「ことば」は捌け口なんですよ。そして、そうしたある種の捌け口を共通点にして人間関係を構築していく。友達との関係も、何でもいいから話すだけ、時に愚痴を話してすっきりする。それが相手にとってどう受け取られるかは関係なくて、しゃべってすっきりすることだけが目的。

だから、思ったことを可能な限り全て話していく。捌け口ことが生きていく上で必要な快感の一つとなっている。そういう人たちで集められた人間関係は似たもの同志が集まっているので強く、そこである種の成功体験を得てしまうとそのスタイルが強化される。

よく「無駄話が好き、しゃべりたい」そういうコミュニケーションスタイルを取る人がいるのは分かっています。だけれども、人の話の腰を折ったり、相手の話をさえぎって常に話して言い訳ではありませんよね。

なお、こういう両親に育てられた私は、コミュニケーションについてしっかり勉強するまでは、しっかりした方略をとっていなかったのがあったので後から反省しました。

 

この問題の本質その2:性格

議論しているときは別にして、コミュニケーションをして協働してやるというチーム作業に適さないコミュニケーションがあります。それが「自分を論破してみろ」という人間。「間違ったことがあるなら言ってみろ系」です。

そういう方はたいてい老人か友達がいない方なのですが、1を伝えるのに10を言わなくてはいけなくて、いつからか、どんな人からも放置されます。放置されると誰からも相手にされないので、間違いを指摘されると逆上するので治りません。

私の親もところどころそういう部分が出てきて困ります。その点が一つ一つ重なり合って、堅牢な壁を作って前に進めないのです。正しい知識を伝えても、誤った信念や経験から、行動パターンを変えることができません。部分的に見ると正しい知識なのでそれがやっかいです。

大学の公開講座で隣の席に座った方と一緒に食事をした際、そういう方がいました。聞いてみると高卒認定で大学に入った方で勉強したくていろいろな大学の講義を受けていて自信満々なのですが、聞きかじったあやふやな知識を披露されていました。ならば、知的にもしくは学歴的に恵まれない方がそうなのか?と思ったら、早稲田の学生でもそういうのがいて、うちの親も学歴的にはそこそこですので個人的な感覚からすると経験則と性格の関連なのかと考えています。

 

そんな訳で、毎日当惑する場面でいっぱいですよ。家族経営の中小企業の現実です。家族なので、いらいらするところ、許せるところ、色々あります。

母からのプレゼントを断った話

先日、iPhone7plusを老眼で大きな画面がほしいといった親にプレゼントした記事を書いた。

 

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そうしたら、名刺入れをお返しにプレゼントされた。ボッテガの高級品だ。以前も財布をプレゼントするといわれたのだが、高級品であるし、以前プレゼントされたもので十分だからと断ったのにもかかわらず、買ってきてくれた。それは、安物の名刺入れを使っていたからだ。感謝を伝えつつ、必要ないので店に返品してくれと封を開ける前にいった。今の私には必要のない高級品だ。そして、探せばブランド品の名刺入れは出てくるはずであるからだ。はてどこいっただろうか(笑)

 

私は親に見返りを求めてiPhone7plusをプレゼントしたわけではないし、安物の名刺入れを嫌がって使っていたわけでもない。探せばあると思うが、別にそれを必要としないと考え、使っていたのである。

 

親の立場からすれば、仕事で高級品の名刺入れはステータスシンボルになるだろう、という考えなのだが、私はそういうステータスシンボルがなくても、認められる人間になりたいのである。親の心、子知らずではなく、子の心、親知らずであると思った。

 

「時間つぶしにゲームをする人」から「やや暇つぶしでゲームやる人」の間の辺りの人の意見

はてブホッテントリが面白い記事だったので、触発されて、個人的に意見します。

 


私の立ち位置カジュアルゲーマー

 私は手持ち無沙汰を解消するためにゲームをする。電車の中、ちょっとした待ち時間だ。本を開くのが面倒なときにする。しかし、それをこなしている最中に、燃え上がって、時に熱中してゲームをする。あくまで、娯楽としてのメインになることは、数少ない時間と回数のみだ。友達と一緒にソーシャルゲームをしていたけれど、ほんの一時的なものだった。理由は、大きな金額を課金をせざるをえないから。そして、課金をしたとしても、納得を得られる結果が少ないからだった。それゆえ、毎回毎回そういう額を課金しないならば、普段しているソシャゲからは大満足を得られることは少ない。私の立ち位置はこんな立場である。

 

かつての立ち位置ヘヴィゲーマー

以前の私は、違った。それは、据置きゲームをやっていた頃の私だ。新作ゲーム機がでたら、つい買ってテクノロジーの進化を感じて満足し、その中でもRPGだと、ストーリーとレベル上げの作業を楽しみつつ、クリアする。また、アクションなら自分の技術の成長感じて満足していた。これは上述のブログからいえば、プロセスを楽しんでいるのだと思う。が、手持ち無沙汰を解消するためのソシャゲは、プロセスを楽しんでいないのだろうか。

 

その比較

過去と現在を比較すると、友達と一緒にソシャゲやるときは、熱中してプロセスを楽しんでいることが多い。だが、その時間は長く続かない。ソシャゲは周回ゲームになっているのが多いので、すぐに飽きてしまう。さらに、単純な操作でできるゲームが多いので、「ゲームとしての深み」を表現しているタイトルは少ない。例えば、パズドラは、スマホのタイトルではストーリーがなく、白猫は、シナリオはよくできているのがあるものの、肝心のアクションに関しては、その回のガチャのメインキャラをひけば、なんとかなるという仕様が多い。技術もある程度は関係あるが、ある程度にすぎないように感じる。ただし、無料で遊べるので文句はいわないし、過剰な期待もしていない。

加えて、ソシャゲをやっている人と出会ったら話のネタにする。私にとって今一緒にすごすゲームは、暇つぶしであり、話のネタだ。単なる一消費者で、「ユーザー」といえるまでのところにすら行っていない。

 

ゲームの楽しみ方の変化

つまり、ゲームの楽しみ方が違うのである。ゲームそれ自体に面白さを感じることを目的とするのではなく、ゲームを通じた交流で楽しむのである。過去においては、ゲームそれ自体に楽しみがあったが、ドラクエやFFなどのビッグタイトルが面白くないと感じるようになったせいで、ゲーム自体に大した期待を寄せなくなった、

他にも、(ヘヴィ)ゲーマーの精神的属性が合わないと感じるようになった。据置き機に夢中になっている人は、やりこみ系の方が多くて、やりこんだことを誇りに思っている方が多い。私もドラクエをやったらレベル99まで上げてしまう人であるが、それを誇りに思うことはない。夢中になってやった結果や単なる自己満足という評価である。他人と比較して、「エライ」という感情はほとんどない。しっかり味わった(?)という自己評価が増大するだけだ。いわゆるガチ勢やカンスト勢と話しても大して面白くはないことが多い。ゲーム製作者の背景や裏話、バグの理由などちょっとした小噺、ストーリーに対する受け止め方などならば面白く感じるけれども、そんなやりこんだことを話されても、全く面白くない。ゲームが好きという共通点になる程度だろう。しかし、そんな人と共通点を持ってもほとんど利益がない場合が多い。

 

考察

なぜ、そうなったのか?ゲームという文化が、盛り上がっていないからだと思う。90年代では、ドラクエやFFの新作が出ると、テレビのニュースで話題になったものだ。そして夢中になって面白いとか面白くないとか話し合ったものだった。けれども今はそこまで話題にならない。毎回毎回新しい発見は得られるような、あたらしくやりたくなるようなゲームはない。それは他に十分楽しめる娯楽があるからだし、みんなが共通して楽しめる夢中になれるビッグタイトルはない。ゲーマー向けのタイトルとソシャゲのようなカジュアルなタイトルで二極化している。

 

それ故、プロセスを楽しむユーザーは、ゲームを通じた友人との関わりという付随的なプロセスを楽しむか、据置き機のような大作でプロセスを楽しむか(※これにゲーマー同士の関わりもあるが)になっているのだろう。

 

趣味の時間は暇つぶしなのか?

最後に一つだけ補足をしたい。そもそも「趣味する時間は、『暇』な時間なのだろうか」という疑問は残る。これは、読書の時間が暇な時間に読書をするかという問題にも直結するかもしれない。仕事に関係する読書は、暇ではないようにみなされるかもしれないし、娯楽小説の読書は、暇つぶしであるようにみなされるかもしれないというのとは違って、ゲームが人生の中でどういう役割を演じているのかによるだろう。

映画を見るのは暇つぶし?テニスやマラソンをするのは暇つぶし?将棋は? これらは、社会におけるそのほかの趣味とゲームという趣味の重要性で判断されている可能性もある。が、趣味に対する考え方自体によるものの可能性も残る。趣味とは余暇にするものであるという認識の人からすれば、暇だから趣味をすると思われてもおかしくないからだ。

そう考えると、上記記事の執筆者は、ゲームだから軽く見られているという可能性を重く受け止めすぎている。今度からは趣味の時間で忙しいからという断りを入れてみたらいかがだろうか。そうすれば、ゲームが軽んじられているのか趣味の時間を軽んじられているか判別が付く。その結果、ゲームが軽んじられているのかを考えても遅くはない。ワークライフバランスにおける趣味の重要性と趣味としてのゲームの地位が混同して議論されているように見える。

幸せは自分の心の中にある:幸せを手に入れる4つの考え方

混沌とした社会の中で、何が大切か、何が重要なのか、わからないで迷ってしまう人がたくさんいるようです。

 

かくいう私も青年期には悩んだものでした。しかし、自分の納得する礎を一つ一つ立てていって、自分と社会との調和を考えるようになってから、大きな迷いがなくなりました。今は小さな悩みはたくさんありますけれど、どういう方向性で進んだらいいのかを決めれるので、難しく考える方よりも、楽に生きられていると思います。そこで、つまらない自分語りで恐縮ですが、自分の考えを書いてみます。

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まず、プライベートと仕事の割合について考えて見ましょう。人は週5日40時間働いているとするならば、約7時間の睡眠時間を除いて、一番多くすごす時間ですね。仕事の時間を少しでも楽しく過ごせるように、前向きに考えて生きましょう。

労働は神が与えた罰なのか、一方、労働とは、大局的に見て、社会に何かを提供する時間と考えるのかで違います。これは家族家訓を見て心の中に刻み込まれました。私の家は祖父の時代から会社の経営をしていました。その中で、仕事がいやだという話は聞いたことがありません。一方、近所のお兄さんは常に愚痴をいっていました。学校の勉強がいや、バイトがいや、親がうるさいなど。

同じことをするのでも、それをしている間は楽しくやるのが仕事だと教わったのです。その結果、私は勉強もバイトも仕事も愚痴を言わなくてはならないほど、いやだと思ったことはありません。面倒だ、今日はあんまりしたくないという日はたくさんありますが、行ったら行ったで、その度合いは違うけれど、楽しく仕事をすることができます。

上司やその他の人間関係に不快な思いを感じることも時にはありますが、完全にスルーします。可能な限り存在しないモノとして脳に認識させます。

 

次に、プライベートについて考えて見ましょう。あなた自身のやりたいことはなんですか。以前からやってみたかったことはなんですか。それは今の状況でできますか。それをするためには、何が必要ですか。必要なものを低に入れるためには何をすればいいですか。

自分自身のためにやらなくても、家族の幸せを望むことも一つです。他人の楽しみは自分の楽しみにできることは幸福度をあげるコツかもしれないですね。家族のために我慢をしているのではなくて、家族と共にいる時間を大事にすると考えるだけでも、物事の負担やストレスは変わります。

私はテレビを見るのが以前好きでしたが、家族用のリビングのテレビが壊れたときに私の40インチの液晶テレビを提供して以来、一切自分の部屋では見なくなりました。ときどき見たくなるけれど、優先順位を低くして、インターネットの動画を見ることで代替しています。

 

第3に、夢を持っていきましょう。10年後はきっとこうしていたいというイメージでもいいですし、毎日おいしいケーキを食べるという夢でもいいです。それだけでもストレスを処理することができます。

ただし、叶わない夢ばかりを考えるのは、妄想家になってしまうので、やめましょう。例えば、「もし小学生になってやり直しができるとしたら」なんていう内容です。

ある程度の夢をもったら、それを叶えるためにどうすればいいのか、フローチャートに書いて見ましょう。その段階では夢に近いものでも、少しずつ階段のように段階を上っていくことが可能です。

 

第4に、過去を引きずりすぎるのは止めましょう。どうしても受け入れがたい体験を持っている方もいますが、今のあるがままの自分を受け入れて、将来への展望をもって生きることが幸せの実感を高めます。

どんな困難な状況でも、その認知を変えて、生き抜き、目標を達成するような方々がいます。完全にそのようになることは難しいでしょうけれど、そしてならなくてはいいのでしょうけれど、部分的に真似することができるかもしれません。

ただし、失敗は謙虚に学んでください。失敗をもなかったことにしてしまっては成長できませんからね。

 

こうした4つの考え方の軸をもつと毎日少しずつ負担が減らせます。几帳面でまじめで自分から重荷を背負って生きていく方が多いので、どうせならまじめに楽にいきて、その楽になった分を何かにまわせたら、どれだけ幸せか、そんな風に考えて生きています。