スプラトゥーンにいまさらはまっている

任天堂スイッチとともにスプラトゥーン2を発売日に購入してずいぶん経ったが、途中全くやらなかったのに、ようつべを見てしまうことで再燃し、続いている。

 

この種のシューティングゲームはかわいくないのだが、スプラはかわいくて続けてしまう。時間を食うという意味ではやらないほうがいいのだけれどもね。ここ数年は、定期的にゲームにはまってしまう。

 

勉強にはまりたいところだ。

失敗から学ぶのは愚者だけれど、失敗から学べないものは愚者以下の存在か?

初代ドイツ帝国の首相ビスマルクは、「愚者は失敗から学び、賢者は歴史から学ぶ」という言葉を残した。だから、学びなさいということなのだろうが、私は失敗から学ばない人を見ることがあります。

 

ある大学生は、試験で赤点をとったので、親から部活をやめろといわれていた。この大学生は女性で、浪人生のころから知っている。授業には遅刻、自習でも寝るという最悪の生徒なのだが、結局目標大学を下げてなんとか大学に滑り込んだ。

勉強から逃げるのが得意で、とにかく勉強をしない。大学に入ったら勉強するのかと思ってみていたら、やはりしなかった。部活も女子マネージャーで、何を目的に入ったのかも知らないが、実質の拘束時間が長いのに、そんなの入って大丈夫なのかと思っていたら、やはり赤点を取った。

ただし、本人は赤点を取るとか、部活をやめるとかそういったことは考えてなかったようで、おろおろしていた。

 

本人の行動を見ていると、必ず失敗すると思えるのに、どうして本人は気が付かないのだろうと私は常に疑問に思うのです。

しかし、失敗から学びすぎると、何事も出来なくなってチャレンジ出来なくなってしまう場合がある。学ぶのは、失敗した要因や分析であって、チャレンジ自体はあきらめないほうがいいと思います。試行回数で乗り越えられることもたくさんありますからね。

世の中がおかしいと感じた瞬間

世の中がおかしいと感じた瞬間というネットの記事を読みました。実際おかしいことはたくさんあるのだと思いますが、まずは自分がおかしくないか考えて欲しいのです。

 

http://blogos.com/article/213757/

 

その一つに、「エレベーターの右、または左を開ける習慣がおかしい。本来歩かないものなのに、歩く人がいるのはおかしい」というのが気になりました。

エレベーターは、階段の代わりに利用するもので、移動を助ける手段という理解をしていたからです。移動を助けるというのは、移動速度を速める、歩かないで移動することが可能になるというモノです。

私の場合、「歩かないために」という意味を持たせていないのでなんらおかしくありません。おかしいのだったら、そういう習慣も生まれないと考えます。

これは道具の用法の問題であるわけで、利用者に運用は任されています。

 

一方で、

この記事を見てください。

 

彼らの多くは間違ったことをやっているという感覚がほとんどなく、『自分は正しいことをやっている』『指導している立場だ』という前提で性的接触を繰り返す。子どもだってイヤがっていないし、むしろ“望んでいる”と彼らの目には映るわけです。

 

自分の考えていることが常に正しいと考えるのは怖いことです。自分の認識でのみ、物事を捉えると、他人の認識をないがしろにして、ほかの意味を付与できなくなってしまう。

そうすると、さまざまな価値観を尊重することが出来なくなってしまう。エレベーターの件はどのように考えても自由ですけれど、法律事項にはそんな自由はない。価値観、モラルも問題は、一言で片付けられないのです。

 

普通の記事だったら、ここまでで終わりです。が私はさらに掘っていきます。では、

私の価値観がおかしかったとして、「エレベーターは歩かないためのモノだ」という唯一の価値観を認めない価値観なのではないかと考えたらどうでしょうか。

 

あるいは多様性の尊重という価値観、特に先進国にありがちな価値観に毒されているのではないかともいえます。

 

これにはどう反論するのか。

 

私は、法律事項と道徳事項を分けた上で、道徳事項に関しては、あくまで自由だと宣言します。その上で、おかしいと思うならば、声を上げて、最終的には多数派として、法律や条令に格上げするしかないと考えます。道徳事項に関しては、簡単にはおかしいとはいえないから、多数決で決めるしかない。

 

たとえ、間違っていたとしても、一種の社会的合意が形成されたならば、その期間に関してはある種の規範が働く。けれども、間違っているならば、やはりその合意は後になくなるだろうといえるからです。

 

つまり現状がそうある以上、現状を肯定するようなロジックのほうが強いと考えます。簡単に世の中がおかしいと声を上げるのは、緻密な考察が必要なのでしょう。

日本には政府批判票を入れる受け皿の野党がない

衆議院選も終わり、選挙前と変わらず、自民党公明党憲法改正の発議を出来る3分の2を取りました。

私が子どものころ、「政府(自民党やその連立政権)はおかしい」というような批判をずっとテレビで見てきました。実際におかしいところは今でもたくさんあると思います。

しかし、自民党には野党になってほしいけれどじゃあどこの政党にいれたらいいの?という現実問題になると、それは一つもありません。旧社会党系(民主・民進党、立憲民主党)や共産党系は、批判だけで実際に政権をになう能力がないということが判明したからです。

 

何がしたいのかわからない野党

選挙運動を見ても、安倍政権批判だけで、突然憲法改正賛成になったり、反対になったりします。共産党以外で、改正の内容によっては賛成、反対あるのは、いいのですが、逆に政府与党が野党案をのむと、反対することがあって、反対のための反対の活動をしていることがわかります。これでは、国会を議論の場ではなくてイデオロギーの主張の場としているだけで、なんら意味を持ちません。

そういうときに、日本維新の会希望の党が出てきて、政府閣僚、地方自治経験者を含む集団が議論を元に、実際に妥協と決定できる政治をしてほしいという思いの受け皿になっていくはずが、結局政権を取ることはできませんでした。希望の党が負けたという報道、立憲民主党が躍進したという報道両方ありますがこれはフェイクニュースですね。

 

希望の党は0からの大躍進で、民進党の幹部が集まる立憲民主党は、民進党から大幅に議席を減らす敗北

希望の党は、民進党の残骸を引き受けなければ、次回以降の選挙でも勝てたかもしれないのに、その芽をつぶしてしまいました。排除発言が原因といっていますが、これは違いますね。排除された側(極左反日集団)およびそれを支持するマスコミに都合のいい報道がなされているだけで、実際は、民進党員のようなよからぬ集団を排除してほしいと思っていた層をがっかりさせたのが敗因だと思います。

また、維新の会が約10議席負けたのは、国政では目覚しい結果を残せていないこと、安倍政権とどういう距離で関わるのかはっきりしないこと、南関東ブロックでは、円状マーケティングで有名な長谷川豊元フジテレビアナウンサーを公認したのが原因だと思います。さらに、ツイッターで橋下さんが今暴れていますが、選挙にも出ないで口だけで暴れるのは止めてほしいですね。次以降の、国政に出るとの噂もあります。

 

個人的に今後気になるところ

私は安定した政権運営と着実な改革を望んでいます。都民として小池百合子都知事がどう都政に結果を残し、国政に出てくるのかが一番の興味です。小池知事は、旧態依然とした悪代官のようなモノをつぶすのは、防衛事務次官の件を見ると得意なのはわかるのですが、どれくらい実務能力があるのか知りたいですね。

受け皿となる野党ができるのを待っています。

 

自民と希望の党どちらに投票すればいいの?

迷っている人は多いと思う。

 

その迷いの理由は、以下のようなものと推測する。

 

欧米から見ての極東が不安定なときに投票できるのは自民党しかない。だけれども、自民党の政治家の横暴や傲慢さにはついていけない。そこで、希望の党にいれたいのではあるが、元民進党や素人に毛がはえたような人には投票したくない。すると選択肢はない。

 

となると、候補者本人の主義や思想信条を把握して、ベターな方を選ぶしかない。まだ投票していない人はネットで検索するなり事務所に電話するなりして調べてから投票しましょう。

日本人だから、ノーベル章受賞者が日本人だとうれしいの?

ノーベル賞発表の期間になり、日本人が受賞するのかというのが話題に上がっています。かつて私は日本人が受賞といっても、日本での研究が認められたならともかく、海外の研究機関での研究であり、かつ日本が主導的に研究していたのではないから、その知見を独占的に利用できるわけでもないのになんで喜んでいるんだと考えていました。

 

ところが、いつのまにかその感覚も消えうせ、日本人が受賞と聞くとなんとなくうれしい気持ちになるようになりました。しかし、南部さん受賞のとき、米国籍になった人もまるで日本国籍であるかのごとく報道しているのを見て、複雑な気持ちになったのを覚えています。

 

今は、日本文化を背景に、母語を日本語としている人が受賞した時にうれしく思うとはっきりとわかりました。言葉や文化の影響について考えてみて、なるほど、同じ言語を基準として考える人が世界で認められたとしたら、自分と共通のアイデンティティが高く評価されたような気がしますものね。

 

もっともその例外が文学賞のあの人。大学生のころ、いくつか面白いと思って読みましたがその後の政治的言動や毎年出てくるカフェにあつまる信者を見て、嫌悪感を覚えるようになりました。

 

そういう方いますかね?苦笑い

 

学力の成長しない性格:中学受験を控える小学生を見て

こんにちは、きょうちです。今日は塾でのお仕事の話をしたいと思います。

 

私は、セカンドワークとして、塾で教えています。社会人になって、ひょんなことから、週1日だけ数時間、人員不足の塾で働き始めたのですが、その塾より良い環境で働きたくて、二つ目の塾に入り、教えるようになりました。

 

塾での仕事は面白いです。小学生のお世話は難しいのですけれども、小学生の素質や性格を見ると、小さい「大人」としての萌芽を見ることが出来るので、社会的な、個人的な人間関係の勉強になるから、面白いのです。

 

小学生の担当になる

そんな折、一人の小学生の担当になりました。Aくんという名称にしましょうか。Aくんは、小学校6年生で中学受験を控えています。しかし、私は教えていて、すぐやっかいに感じるようになりました。今までもった生徒の、やっかいと感じると特徴を併せ持ったような生徒なのです。以下に説明していきましょう。

もっとも、全部リアルのことを書くわけにはいかないので、フェイクを交えて書いていきます。あくまでそこから分析できることを、一般的な形にして伝えたいという趣旨ですので、そこのところをよろしくお願いします。

 

やっかいなこととは?

では、どこがやっかいだと感じるようになったのかというと、まず、「課題に取り組まない」、次に「課題に取り組んだとしても、すぐに壁に当たり、投げてしまう」、最後に課題に取り組むように説得すると「独自の理論を述べてやらないことを正当化するか、自分の解答・回答を正解にしてしまう」という3重苦を背負っているからです。

これって大人でも全てに対して同じような人がいます。また大人でも不得手な内容に関しては、同じように行動してしまう方もいますね。

こういう性格だと、既存の学習支援の中では、本人の望むような志望校への、受験に適した能力を身に付けるのは、ほぼ不可能です。では具体的に見ていきましょう。

 

課題に取り組めない

まず、見てわからないと「わからない」といってすぐ問題を投げてしまいます。そりゃ、受験勉強に慣れていない生徒なら当然です。けれども、できないなりにも取り組むことは出来ます。問題文にヒントが隠されており、それ次第では、なんとか取り組めるようになっているからです。

にもかかわらず、取り組もうとしない。そして、問題文にヒントが隠されているよと教えても、わからないものはわからないといって投げてしまうのです。さらには、文字を埋めようとすることすらしない。

 

次に、取り組めるような問題だった場合や、取り組めるように一緒に問題を読み、解説をしつつ、回答への導入をした場合にも、すぐ壁に当たりやはり投げてしまうのです。具体的には、あなたの得意なことを挙げ、その根拠を3つ挙げなさいという作文問題があったとします。

この主の自分語りが出来る問題なら取り組みやすいですよね。彼の場合、スポーツと音楽とツムツム(ゲーム)はできるのようなことをいいます。が、試験問題の解答として、ゲームの話題は、回答に適しないのはいうまでもありません。適するような場合があったとしても、それを論理的に、中学受験に適するように書くというのは、この子の実力からして無理でしょう。

もちろん、将来の夢としてゲームクリエイターやプロゲーマーみたいなモノを挙げるなら別ですけれども、頭の固い教育者が読んだときの印象を考えると、教える側としては、別の選択肢を用意してといわざるを得ません。

にもかかわらず、ゲームのことを書こうとします。書きながら、その根拠が思い浮かばないというので、手助けをしようとして、どんなゲームをやったの?それをクリアしたの?どういう風に得意といえるの?と聞いてもうまく説明できません。

こんな様子ですから、これ以外のトピックで書けそうなモノを選びなさいというと、もう少し無難なトピックを選ぶものの、鸚鵡返しのように、○○が得意だといったら、その理由は○○が得意だから、そうだと思うからと答えてしまいます。つまり、考える力がないのです。

最後に、じゃあ、ゲームが得意な理由を挙げなさいと書いているのに、ゲームが得意だからという理由を書いて良いのか、そんな生徒を学校が欲しいと思うのかと聞いてみると、「自分はそういう人だから仕方がない」といい始める次第です。

私が推測するには、本人の素質+家庭環境で現在の性格になってしまったわけで、気の毒に思いますが、これでは成績を伸ばすのは非常に困難です。

 

この理由は「勉強の出来るようにならない性格」

一言でいえば、ものすごいプライドが高いのですね。プライドが高くても、それをもって勉強に取り組むエネルギーにしてくれたらよいかもしれない。「自分の力はこんなものじゃないはずだ」といって頑張る。これは、よくある光景ですよね

しかし、気になるところは、自分の成績を客観視することができていません。偏差値が20以上も上の学校を目指して勉強しています。私は偏差値とは受験直前までの目安に過ぎないし、それに囚われて進学先を絶対的に決めることはないと思っているのですが、解答(回答)の間違いを認めない性格ではとても厳しいです。

 

どんな「性格」ならいいのか

現実を見て、それに対処するにはどうすればいいのか考え、実践し、それが出来なかった場合には、違った対処をしていくという行動パターンを形成できる「性格」です。このように書くと、この行動原理を身に付けられる性格だということがわかります。少なくとも中学受験の問題に対して、この行動パターンを身に付けられない子どもは、受験には向いていませんし、受かることもないでしょう。

大人でも、加齢にしたがってアプローチを変えることのできない大人はいますが、これでは新しい時代には適応できません。

 

この性格を変えるのが教育のプロなのか?

彼のようなよくある特殊タイプの生徒は、大手の一般の塾では対応できないでしょう。なぜならば、時間とコストがかかるからです。言い換えれば、時給5000円以上の個人もしくは家庭教師なら別ですが、彼の性格に合わせてプライドを壊していくことが可能な権限と関係がなければ難しいです。権限とは、親のようにその子に接しても良いという権限であり、関係とはそれを実行するための、時間的な期間に基づいた信頼関係です。

つまり、彼をどうしても受からせたいという欲求を持っているような、さらに、その大変な労力に見合った状態が整っていて、対価を受け取れる状況にある人だと思います。高額な報酬を元に、家庭との連携を密接にとってその協力を得られる人間のみでしょう。

 

現役講師が教える塾の選び方、勉強のさせ方

私の勤務している塾は、それなりに教育熱心な講師がいると思います。けれども、塾として、ある生徒を受からせたいと見たときに、あまりに手のかかる生徒は漏れるでしょう。

教育とは、能力のある生徒を伸ばすためにあるという一方で、能力のない生徒を伸ばすためにもありますが、塾の進学実績を伸ばすためには後者の生徒に時間をかけてられないのも事実です。

塾で成績を伸ばしたいなら、塾のカリキュラムに則って親が管理できる状況にない方は、中学受験のために、絶対に手ごろに塾に通わせるのはやめたほうがいいと思います。

そうした管理は、塾だけではできません。中学受験の学習とは家庭学習をも含むものだからです。

 

問題なのは、自分で自分のことを知って、その問題点を気が付かないこと

私の考えは、全国の小学生全員が中学受験しなくてもいいと思いますし、全員がいわゆるいい学校に行かなくても良いと考えています。なぜならば、教育にはその人にとって適正があるからです。能力的な適正はもちろんありますが、その人にとっての適切な時期があります。また適切な環境もあるでしょう。

ただ、受験勉強を通じて得られるモノは、概して受験校が欲しいと思っている人材を把握し、ある種のその型にはまること、そして、その方を通じて自分を知ることだと考えます。

彼の場合、受験校が欲しいと思っている人材を把握していませんし、把握したとしてもその型にははまりたくないし、そういった自分の性格を知ろうとしない、ゆえに受験に向いていません。ですので、いくら勉強したところで、面接で難ありと判断される可能性は高いでしょう。

常にそうした状況を確認しつつ、対象化、客観視していかないと結果はでないとかんじています。